私の父は被爆者。
当時8歳、小学2年生、入市被爆。
61年前の8月6日にヒロシマに原子爆弾(原爆)が落とされて、そのとき市内(指定区域内)で被爆した人を一号被爆者または直接被爆者、原爆投下後2週間以内に放射能で汚染された市内に入って被爆した人を二号被爆者または入市被爆者、一号と二号以外死体処理・救護従事者を三号被爆者、妊娠している人のおなかにいた胎児を四号被爆者または胎内被曝者と言います。
被爆者は日本人だけではありません。
強制的に動員された中国や韓国の方もたくさんいらっしゃいます。
(↑もともと住んでいらっしゃった方もいます)
そして、捕虜となってたまたま広島の憲兵隊司令部で監禁されていた12人のアメリカ兵もいました。
原爆投下後、このアメリカ兵たちのうち即死しなかった2人は、監禁されていた場所から引きずり出されて、瀕死の状態になっているにもかかわらず、産業奨励館(原爆ドーム)近くの電柱に鉄線で縛り付けられ、怒り狂った人たちに石やれんが、ガラス瓶を投げられたり、唾を吐き掛けられたりしました。
若い兵士たちで、そのうちのひとりは青い石の指輪をはめていたとの証言もあります。
「ウォーター(水)」といいながら息絶えました。
今は、彼ら12人の名前も原爆死没者名簿に記載され、そのうち8人の遺影が慰霊碑内に納められています。
父は広島の田舎の方に疎開していて、きのこ雲をその目で見ました。
そして何日か後に、父親(私の祖父)と一緒に入市し、残留放射能で被爆しました。
入市の目的は、自宅が無事かどうかの確認。
人の死体を目にすることはなかったそうですが、家畜などの死体はそのまま放置されていたそうです。
私の父は、それ以上は覚えていないのか、話すことはありませんでしたし、この話も、1度か2度、してくれただけでした。
私の実家には、被爆後の焼け野原のヒロシマの写真が古いアルバムに貼ってあって、それを見せながら話してくれたのです。
戦後、当時小学生の父のアメリカ軍人に対する印象は、ひとなつっこい、お菓子をくれる人たち。
よく、チョコレートやガム、キャンデー(父はキャンディとは言わなかった)をもらった。
あるとき、メリーという名前の犬がいなくなり、近所の人たちと一生懸命探していたら、アメリカ軍人たちがジープから降りて一緒になって「メリー、メリー」と探してくれた、もちろん、彼らはメリーという女の子だと勘違いしていたらしい。犬が出てきたときは笑いながらよかったね、みたいな笑顔で去っていった。
またあるときは、プールで父と泳ぎの競争をし、父が勝ってアメリカ軍人の方にえらく誉められたとも言っていました。
父は、原爆を落とされた事実よりも、その後のアメリカ軍人たちの優しく温かい姿に良い印象を持っていたようです。
当時の大人たちは、その光景をどう思っていたのかはわかりません。
もちろん、原爆のひどい被害にあった方たちは、辛かったことと思います。
私が小学生の時、近所の公民館で原爆投下後のヒロシマを記録したフィルムの上映会があるということで、見に行った事があります。
そこには、アメリカから日本に留学していた20歳代の女性もいました。
フィルムは、目をそむけてしまうような、そんな場面が非常に多いものでした。
彼女は上映後、マイクを持って話し始めました。
私は彼女の言葉を、なぜかはっきり覚えています。
「私が日本に留学を決めたとき、家族は反対しました。
そして、その留学先が広島だとわかると、家族はさらに反対しました。
広島に行ったら、お前は殺されるか傷つけられるだろう!
お前が殺されるのを見過ごすわけには行かない・・・と。
そう言い続ける家族を説得して、広島に来ました。
私はそのとき、その意味がわからなかったけど、今、このフィルムを見て、初めてわかりました。
アメリカのしたことの大きさを。
アメリカでは、原爆投下は戦争終結を早めたとしか知られていません。
私もそうでした。
このような恐ろしいことがあったと言うのは、到底信じられません。
アメリカでは原爆のことを言われたらパールハーバーを言う人が多くいます。
でも、人を殺すという意味でどちらも悪いです。
でも、原爆はあまりにもひどすぎます。
してはいけないことだったのです。
私はこの夏でアメリカに帰ります。
でも、今日見たことを、必ず伝えます。」
私はその当時、自分が被爆2世であることを知りませんでした。
だから、遠い昔(といっても、その当時からみて30数年前?)の戦争の話だったんです。
自分が被爆2世だと知ったのは、中学に入ってからなんです。
ちょっとショックでした。
でも、全く健康な父を見て、心配する必要はないと思っていました。
ところがその父も私が高校生のときに、脳出血で倒れたことをきっかけに原子爆弾被爆者手帳を申請し、二号被爆者として公に認められました。
この手帳を申請するためにはたくさんの条件があり、特に「被爆証明書・・・第3者2名以上の方に被爆証明書を記入してもらう」というのがかなり困難です。
証明してくれる人がいるなら可能ですが、実際には、なかなかいないのです。
申請の仕方のURLを貼りましたので、ぜひ、見てください。
http://www.awa.or.jp/home/awah-c/sonota/genshi.htm
そして一昨年、原爆投下後59年目の夏に、父は悪性リンパ腫(=原爆症)を発症しました。
そのとき、あと2~3年、と宣告されたそうです。
しかし、そのたった3ヵ月後に、父は倒れ、植物状態で半年間生き、60年目の夏を迎える前に天に召されました。
68歳でした。
原爆の放射能は、今なお、被爆者を苦しめ、まだ原爆症を発症していない人たちもいつ発症するかわからない恐怖におびえているのです。
父だって、戦後59年もたったこの平和な時代に・・・、まさか自分に・・・、という思いだったでしょう。
8月4日、広島地方裁判所で、ある裁判の判決がありました。
原爆症と認めてほしいという申請を却下したのは不当だとし、全国の被爆者らが却下取り消しなどを求めた裁判で、原告41人全員が勝訴したのです。
このような判決を本当に喜ぶと共に、未だに認定されない、また、日本に来ることができずに申請のできない世界中の被爆者について国はもっと考慮し、認定基準を見直し、1日も早く認定してほしいと、切に願います。
今年も8月6日に広島平和記念公園で平和式典が行なわれます。
原爆投下60周年の去年もありました。
私の父の名前も、そのとき、原爆死没者名簿に記載され納められたそうです。
毎年、数十名の名前が追加されていきます。
その去年、ヒロシマは、核保有国7カ国(アメリカ・ロシアなど)と去年2月に核保有を公言した北朝鮮に式典参加の招待状を公式に送付しました。
式典に参加したのは、ソ連当時チェルノブイリの原発事故で放射能汚染を経験したロシアのみでした。
北朝鮮からは返事さえありませんでした。
私は広島で生まれ、広島で育ちました。
今は、広島を離れて生活していますが、広島が大好きです。
私は去年、広島で生まれ育った者として、被爆2世として、もっと、ヒロシマの事を知りたいと初めて思いました。
それで、去年の8月6日の新聞も残しています。
これからはもっと、積極的に、平和に対して興味を持っていく必要があると思います。
「戦争」と呼ばれる「人殺し」を、見過ごすべきではないと思います。
人が人を殺す、そんな狂気の世界を許すことができません・・・
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